患者さんは「触れてほしい」とは言わない- 触れる前から始まっている看護師のケア -

患者さんのそばに立ったとき、

「触れてほしいです」と 言葉で伝えられることは、

ほとんどありません。

それでも、「今、触れたほうがいい気がする」

そんな瞬間があります。

その「気がする」という感覚は、

決して、 突然どこかから降ってくるものではない

と私にはそう感じています。

患者さんの視線や、 呼吸の速さ、 声の調子、

ベッドの中での身体の向き。

そうした小さな変化が重なって、

「今かもしれない」と 静かに教えてくれるのだと思うのです。

それが「触れていいサイン」かどうか、迷うとき

ただ、それが
「触れていいサイン」なのかどうか、
いつも自信があるわけではありません。

だから私は、
触れる前に、
一度立ち止まるようにしています。

それでよかったと感じることも、少なくありません。

触れないという選択も、ケアになる

触れるか、触れないか。
そのどちらかを選ぶこと自体が、
すでにケアなのだと思っています。

そのとき、私が確かめているのは、
「何かしてあげたい」という
自分の気持ちが先に立っていないか、
ということです。

言葉のない時間に、そっと手を添える

触れない、という選択をする日もあります。

ある日のことです。
特別な場面ではありませんでした。

ベッドサイドに立ち、
しばらく声をかけずに過ごしました。

しばらくして、
そっと手を添えました。

そのとき、
患者さんは何も言いませんでした。

緩和ケアの現場では、
言葉でのコミュニケーションが
難しい方も少なくありません。

声をかけても、
返事がないこともあります。

それでも、
しばらく患者さんのそばにいて、
何も言わずに、
そっと手を添えることがあります。

その時間に、
何かが起きたわけではありません。

それでも私は、
その場を離れずにいられてよかったと、
後になって思いました。

何かを引き出そうとしたわけでも、
気持ちを変えようとしたわけでもありません。

ただ、
その時間を一緒に過ごした、
それだけでした。

触れるケアは、何かを起こすためではない

触れるケアは、
何かを起こすためのものではなく、
その人の時間に、
そっと居場所をつくることなのかもしれない。

そんなふうに感じることがあります。

だから私は、
触れる前に迷う自分を、
以前よりも、
大切にできるようになりました。

迷いながら立ち止まることが、看護の専門性

看護師は、
日々のケアの中で、
観察し、感じ取り、
その場で判断することを
繰り返しています。

触れるか、触れないか。
その判断に、
いつもはっきりした正解があるわけではありません。

それでも看護師は、
患者さんのそばに立ち、
感じ取り、迷い、立ち止まりながら、
その場で最善だと思える選択をしています。

「何となく」ではなく、
これまで積み重ねてきた観察や経験の中で、
あとから自分の中で理由を見つけられる感覚。

触れるケアは、
特別なことをするためのものではなく、
その人の時間や状態を尊重した結果として、
自然に選ばれる行為なのかもしれません。

迷いながら立ち止まるその姿勢こそが、
専門職としての看護であり、
触れるケアの土台なのだと、
私は考えています。

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この記事を書いている人

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見谷 貴代

看護師/アイグレー合同会社副代表 アロマセラピストから看護師になり、緩和ケア病棟や高齢者施設で5,000人の患者にタッチングを実践。病院や高齢者施設、製薬会社、企業などで研修や講演を実施。大学でも非常勤講師として活躍している。